Biography

和田健一郎

1971年生まれ。福岡市博多区出身 / 神奈川県逗子市在住。 wadadawa555(a)gmail.com

新卒で就いた自動車ディーラー時代に、伝える仕事に興味を持ち、Macを使い始める。メンタイスポーツの屋号で活動した後に、大手自転車メーカーのストアマネージャーを務めました。現在神奈川県を拠点に、自転車メーカー/自転車店のマーケターを務めています。

幼少期

中学1年のときのキャンプだと思われる。

自動車関連の設計士だった父親の影響で幼少の頃からクルマ・オートバイに興味を持つ。
小学生時代の将来の夢はモトクロス選手。HONDA派、フレディスペンサー(小6だった83年にスペンサーGP500初タイトル)推しだった。

小学生から中学生になる大事な時にBTR(バイシクルトライアル)をスタート。ただ特に目立つ訳でも秀でた才能がある訳でもなく…志半ばで断念する。当時の同志は、その後MTBダウンヒルの日本チャンピオンを獲得するスーパープレイヤー、鍋島健一選手など。

高校時代

高校の修学旅行?こんなセーターが流行っていた時代

高校は、あの武田鉄矢さんの母校である筑紫中央高校。嬉しいことに男子より女子の多い学校に行ったのだが、選んだ理系クラスには、女子が少なかった。40人のクラスは、9割ほどが赤点を取るという難しいメンバーだったが、多分自分は1割のうちのひとりだったと記憶している。

確か、高3の頃にバリバリ伝説が最終回を迎える。逆襲のシャア(ガンダム)は、高校近くの小さな映画館で見た。ガンダムはゼータまで熱く語れるから、詳しいほうだと思う。

予備校時代

タイトルで言ってしまっているが、大学に一発合格できず予備校へ。通うフリをしながら、バイトに励む日々を送る。
その頃の趣味は、トレイル車(ナンバー付きのオフロードバイク)。CRM80から始まり、XLR250に乗り換えつつ、オフロードバイクの面白さにハマっていった。予備校よりバイト派、予備校よりバイク(オートバイ)派だったため、学力アップも期待できず志半ばで断念(2回目)。
3度目の正直的な流れで趣味のオートバイをどうにかものにしようと、メカニックの道に進むことを決意し、自動車整備士の専門学校へ入学。

専門学校時代

大きなジャンプのない筑紫野市にあったモトクロスコースが好きだった

ここでもバイト派で、スーパーアルバイターとして日々やりがいを持って過ごしていたが、2年生の頃出席日数問題により進学の危機が迫る。とはいえ、先生方の優しさと案外成績は悪くなかったようで無事卒業。

専門学校時代は、ビデオレンタル屋とバイク屋でバイト。バイク屋では、学校では教えてもらえない実践的なことを沢山学んだ。同じバイク屋の社員でもあった友人には、毎晩のようにカラオケにも付き合ってもらった。そんな彼は、今、F1やSUPER-GTの有名選手のヘルメットを手掛けるカスタムペインターをやっている。すごい。※カラオケでのオハコは、浜田省吾・尾崎豊・B’zなど。随分と大人になった今でも、リズムや青春を取り戻すために、尾崎豊を熱唱することがある。歌唱力についてはまあまあイケてると思い込んでいるが、周囲に褒められたことはない。

CR125(92)でモトクロスを始める。あまり飛ばないコースではなかなか速かった気もする。当時、バイトしていたバイク屋のイベントで椎葉林道へツーリング。ナンバー付きを持っていなかったために、友人のS君から新車のCRM250(倒立のやつ)を借りる。久留米あたりの国道3号線で明け方にウィリーしてたらコケる。アスファルトを滑走していくCRMのステップから出る火花がキレイだったのを鮮明に覚えている。そして、椎葉林道でも飛ばし過ぎてコケる、CRMと一緒に大きなタメマスに落ちる。色々あったが、全部許してくれたS君はとてもいい人である。

Honda CR125R (92)
Honda CR125R (1992)
Honda CR125R (92)
Honda CRM250R(倒立初期)

クルマ通学に憧れて、授業中もクルマをタダで置いておけるというのが決め手となった学校近くのガソリンスタンドでバイトを始める。とある天気が良い日に、「ツーリングに行きたいので休みをください」とバイト先の主任に言ったら当たり前に怒られ、現実社会の厳しさを知る。まあ色々調子に乗ってた頃に、地元のスーパークロス的なコースで手首を複雑骨折。その年で2度目の骨折で怪我を克服し復帰するものの、心理的な恐さを克服できず、モチベーションがダウン。なんとなく気分が乗らないままCRもキャラバン(トランポ)も手放して、モトクロス人生にピリオド。

自動車ディーラー時代

マクグラスがヤマハに乗ったときに着ていたFOXから察するに、1998年頃と思われる。岩岳のスタート後の直線にて。バイクはインテンスM1-SL

専門学校卒業後すぐ自動車ディーラーのサービス(整備)課に入社。その後、引取納車などで行動を共にすることが多かった先輩営業さんの仕事のスタンスに惹かれ、数年後に未経験ながら営業職を志願する。その先輩の営業さんは、今でも師と仰いでいるほど。自分の営業成績はというと…まあまあ良い方、だったと思う。この頃、マウンテンバイクのダウンヒルを始める。モトクロスやってたし結構いけるのではと思っていたが…人生そんなに甘くなかった。

自分達で作り上げたイベントにて、表彰式後のじゃんけん大会が恒例だった時代。手前の細い黄色いのが僕。

九州にダウンヒル大会が少なかったこともあり、1,200キロ離れた白馬岩岳であるレースに通う。友人と交代で夜通しクルマを走らせ、0泊3日で行き来するという奇跡。翌朝は爽やかに出勤するというドラマ。何と言っても、若さに敵うものはない。そんなほろ苦い経験から、九州でもダウンヒルレースが楽しめる機会を作りたいとの思いから、数々のダウンヒルレースイベントを企画・運営していくことに。イベント集客は常時200人くらいの良き時代を経験した。

そんなこんなで何かを発信する仕事の面白さにハマっていき…当時はホームページも自ら作っていた。”ようこそ!あなたはXXXX番目の訪問者です!”のフレーズが象徴する、懐かしくもデジタル化が進んだ頃。ダイヤルアップ接続で夜中にテレホーダイをして、独学によりHTMLを学び制作に生かした。フォトショップやイラストレーターに触れ始めたのもここから。

実家の設計事務所勤務時代

冒頭で触れた、設計事務所を営む父の手伝いをすることに。比較的大型の車検工場や板金工場などを設計する仕事。CADで図面を描き、九州各地を走り回った。いつかは後を継ぐつもりだったが、偉大過ぎる父の後を継ぐのは無理かもといきなり弱気に。嘘、多分やりたいことではなかったようで、デジタル系のコミュニケーションができる仕事に戻った。

フリーランス時代

フリーランスになりたての頃、DTP(印刷のほう)のルールを学びたくてデジタルハリウッドに通い始める。時間の融通が利くことや、元営業で表向き人あたりが良かったこともあり、デジタルハリウッドで非常勤講師もした。

ms(メンタイスポーツ)だったのが終盤にmb(マウンテンバイク)と改名した。残念ながら手元には殆ど残っていない。

デジハリ時代に企画したメンタイスポーツをスタート。マウンテンバイクに関するフリーペーパーで、13号まで発行した。正直まったく儲からなかったけれど、ライダー達やメーカーさんなど、今の仕事に繋がる人脈はここで得ることが出来たと思う。

メンタイスポーツ
中身はこんな感じ。

トレックストア福岡時代

2008年5月~閉店の2013年末まで、トレックストア福岡の店長を務める。オーナーである、正屋の岩崎社長から、「誰か良い人いないか?」と相談があったので、自ら志願してみたら叶った。

120坪くらいに常時100台くらいを展示していた。

トレックストア福岡では、立ち上げ準備から、グランドオープン、リクルーティング、メディア対応、チームでの仕事、ローカルマーケティングまで幅広く経験した。ストアコンセプトを企画したりもしたし、チームプレイの喜び・難しさを学ぶことが出来たりと、素晴らしい5年ちょっとだった。アメリカ・ウィスコンシンの本社にも何度も連れてってもらったし、マウンテンバイクが誕生したと言われているサンフランシスコのトレイル(Mt. Tamalpais)をGaryFisher氏と走れたり。良い時代。

2014年~現在

東京の自転車系広告代理店勤務を経て、2016年春よりフリーランスとして活動開始。
店舗内外装の企画&デザイン・進行管理、効率化のコンサルティング、店舗ロゴからオリジナルウエアなど、何だかんだでご縁のあるトレックを始め、メーカーやショップの様々な業務を請け負っている。
プライベートでは、中途半端な白髪の量や視力の低下(老眼ではないと信じている)を気にしながら、近所の山を走り回るアクティビティを楽しんでいる。(信越五岳トレイルランニングレース3回出走3回リタイア→2019完走しました)